ウルトラQ

というわけで、ウルトラQ第24話の感想。
まず今回のテーマは「存在」と「愛情(他人を想う事)」だと思う。
そして小中千昭さん脚本のお話。良い意味でも、悪い意味でも小中千昭らしい。
自分はデカルトについて全く知らないけど、「コギト・エルゴ・スム」という言葉は知っていたし、「哲学的な何か、あと科学とか」を読んでいたので、その本当の意味も知っている(つもり)。
なので色々と考えさせられて、とても面白い内容だった。

・人形の「存在」について
人形の「我思われる、ゆえに我在り」(「汝思う、ゆえに我在り」だったかも)というのは、デカルト的に言えば実証されないだろう。
しかし物理的に言えば「観測される=存在する」なので問題は無くなる。
つまり、哲学的な意味合いの「存在」と物理的な「存在」の違いで、人形は他者がその心(チューリング的?)を観測し続ける限り、在ることが出来る存在といえる。

・何故人形を想い続けると、死んでしまうのか
人形は人の想念を糧に存在しているらしい。つまり、「想念」というエネルギーは元から存在するのだ。
しかしそのエネルギーは、通常は何に使われているのだろうか?
自分は、(魂or意識が)この世界に存在する為に必要なのだと思う。
想う(想念)事で、この世界に存在している、つまり「コギト・エルゴ・スム」ということ。
この「存在する為に必要な力」を人形に渡してしまうから、いずれ死んでしまう(存在できなくなる)のだ。

・他人(ひと)を想うという事
門野は人形を想った。京子は門野を想った。人形は門野と京子想った。
・・・他人を想うとはどういう事(意味)なのだろうか?
「見る」とは違う。そこらに転がっている石ころを見る人はいるけど、石ころを想う人はいない。
携帯電話について「思考」する人はいても、やっぱり想う人はいない。
・・・想うとは、対象に心がある(少なくても本人がそう思っている)場合にのみ成立するのではないだろうか?
つまり「想う」ということは、他の観測者と認める行為なのだと思う。

心=精神=抽象的自我

・オチについて
最後の「呪い」は「想念エネルギーの、もう一つの使い方」という事だと思う。
想念エネルギーは自分が出しているのだから、要はそれを外に向ければいいのだ。
「呪い」という儀式は、「想念を外に放出する」という意思回路を形成する行為なのだろう。
簡単に言うと「自分の想いで他人をどうこうできると思い込ませる」こと。

そして門野の愛情は人形を生かし、京子の愛情は門野を殺した。
二つの愛情に差は無いし、同質のものなのに、正反対の結果を生じてしまったのだ。

・24話の結論
想いって強いけど恐いね。ってことでしょ?